第10回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト


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最優秀賞受賞作品
私を元気づけてくれた友人
秋谷 進 


  私は大人です。まさか、この年齢になって、いじめに遭う事になるなんて思ってもいませんでした。

 私は小学生の頃に、養護学級の生徒がいじめを受けているところを見ていながらも、何もしなかったことを、いまだに後悔しています。このいじめがどうなったかと言うと、私の友人も同じように現場を見て、先生に相談をしました。すると先生は、「いじめは決してしてはいけないこと」だとホームルームで伝え、学校内の見回り、見守りをしてくれたことを今でも覚えています。先生たちが、そうしたのは、いじめを受けていた子が再びいじめられることを防ぐためと、いじめの報告をした人が新たないじめの対象者になる可能性もあるということを理解していたからです。

 私はこの対応を見て、自分の弱さを実感し、もう二度と見てみぬふりをするのはやめようと心に決めました。そのこともあり、大人になった今、私は障がい児・障がい者医療の専門医として働き続けています。

 話を現在に戻します。私の職場は、ある時から学校崩壊ならぬ、職場崩壊になっていました。病院経営が立ちゆかず、利益を追求した結果です。医師は辞め、看護師も辞めていきます。以前は誰かが誰かを責める、怒る、陰口を叩くといったことはありませんでしたが、職場の雰囲気が変わり、そう言ったことが横行するように。また経営陣の決定したこと、方針に従わなければならない雰囲気となっていました。

 たとえば医事課職員は残業○○時間までと決められていたので、役職職員が一度タイムカードを押し、退勤扱いにした後にサービス残業する。そうなると、男性職員を中心にサービス残業が増えていくことになります。こんな状況を、喜んで受け入れる職員はいません。みんなの不満が、どんどんと積もっていきます。まさにコップの水がギリギリまで入った状態。あと一滴が落ちてくれば溢れてしまう、揺れたりすれば、そのままこぼれ落ちてしまう状況にありました。

 そんな職場では、人間関係も悪化してしまうのは当然です。自分の心にゆとりがないのですから、周りに対する目も厳しくなります。思いやりの心も消えてしまうものです。事実、目に余る医事課職員同士のトラブルを目にし、私は自分から双方に話しかけました。すると、

「自分がおかしいのもわかっている。けど、どうしようもないんだ!」

 と泣き叫ぶ姿を見て、あぁこれはもうどうしようもない状態まで追い詰められているのだなと理解しました。それまでのその人が、穏やかなタイプの方だったので、泣き叫ぶなんてことは、あり得ない姿だったということもあります。

 私はこれは、周りの人間が介入する必要があると思い、意を決して病院内にあるパワハラ委員会に報告に行きました。こういった場合には記録をした方がいいと言われていましたので、ことの次第をまとめ上げ、パワハラ委員との面談には、ボイスレコーダーを持参して臨んだのです。

 ですが、以外にもパワハラ委員との面談はあっさりとしたものでした。報告書に目を通し、「わかりました」の一言だけ。パワハラ委員会が開かれるのか、それとも何らかの処罰があるのか、何かがあるのだと思って待っていましたが、何も起きません。事態も何一つ変わりませんでした。

 私としては、意を決して報告に行ったのに、あんまりだと思って、同僚に愚痴をこぼしました。すると同僚は、

「パワハラ委員会ってのはさ、病院の経営陣と繋がっているんだ。だから、何を言ったって無駄なんだよ」

 と言ってきたのです。私は、その言葉がショックだったのでしょう。私の心身の不調は、そこから始まりました。

 私が報告をしに行った、該当職員はと言うと、結局辞めてしまいました。役職につかれていた方だったので、これからの再就職は厳しいかもしれません。自主退職という名の、解雇に近いものだったようです。

 そんな状況、納得いくはずがありません。ですが、私は雇われの身。病院経営陣にたてつく勇気もなく、無力感ばかりが募っていきました。そうしている間にも、看護師は辞めていきます。1人辞め、2人辞め。看護師が辞めても、人を補給しないので、残っている看護師の仕事の負担は増えるばかり。私は、看護師たちの話を、見聞きするたびに何もできない自分に無力さを感じました。

 そうして、パワハラ委員会に私が報告をしに行ってから半年が過ぎました。ここでの勤務も15年が過ぎます。それだけ勤めていたのも、仕事に対する情熱と楽しさがあったからです。ですが、ふと、そうした思いが消えていることに気づきました。

 障がい児・障がい者診療はやりがいがあり、感謝される仕事です。やりがいがないなんてことはあり得ません。それなのに、そう感じてしまっている自分に驚きました。

 そんな中、コロナ禍になり、私の診療は新患患者が半年待ちになるほど盛況していました。発達、けいれん、アレルギー、救急患者と小児患者がベテランであり、私のような医師が頼りにされることは、まさに生きがいですし、ありがたいことです。

 また内科医師は、すでに何人もやめていたので、病院に残っている医師は3名のみ。それなのに入院患者100名近くを、その人数で受け持つ異常事態になっていました。

 はっきりいって、人が足りていないのです。私もそうですし、内科医もそうです。それなのに、同僚の小児科医がこんなことを言っているのを偶然聞いてしまいました。

「小児科は、コロナ禍で子どもたちは感染予防対策しているから、患者も来なくて暇でよかったわ。今日も1日、おしゃべりして終わっちゃった」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが壊れた気がしました。もう勇気がないとか、そんなことを考えている余裕もありません。私は、すぐさま病院管理者である事務長に苦情を言いに行きました。

「こんなことを平然と言っている医師がいます。いらない人間は、この病院には不要です。解雇して下さい。その無駄な医師の給料を、他の頑張っている医師に渡すべきです」

 私は強い口調で伝えました。すると、事務長は、少し困った顔をして、

「そうは言ってもね、今の時代は簡単に解雇とかできないんだよ。医師同士、仲良くしてくれないかな」
 と、そんな返答をされたのです。私の怒りの感情は驚きで、一瞬消えてしまいました。まさかそんな風に、切り替えされるとは思ってもみなかったからです。

 さらに状況は悪化します。翌日、私の発言は上席と経営陣に筒抜けになっており、あからさまないじめが始まったのです。私が挨拶をしても返事がない。押し付けられる仕事が増える。普段は、みんなで協力し合って仕事をしていましたが、誰かを頼ることもできないし、私も任せたくないという気持ちが強くなりました。そうすると、全てが回らなくなり、食欲がわかない、寝られない、楽しくない、1日があっという間に過ぎるという日々。

 さらに半年が過ぎ、事務長から呼び出されました。明らかに面倒くさそうな顔で、こういうのです。
「先生、だいぶ頑張っているじゃないですか? 一人で。院長から先生の仕事が多いから状況悪いと言うんですよ。ほら、赤字でもあるし、小児科の当直とか時間外診療とか辞めちゃいましょうよ」

「でも、この地域の子どもはどうなるんです? 私が担当する前から20年やっているじゃないですか? この地域では、7市町村で毎日日替わりで小児科当番しているじゃないですか? 市町村から補助金も出ているので、赤字ではないはずですよ」

「あーもう、うるさいな。うちの病院があえて、小児科救急当番しなくてもどこかの病院がやるからいいんだよ。もう決定したことだ。3月末までだからね。だいたい小児科はコロナ禍で赤字なんだよ。小児科なんて患者とのトラブルも起きやすいし、病院にとってもお荷物なんですわ。小児科なくすことなんて簡単にできるから、先生も患者さん抱え込まないで、他の病院に紹介して、いっそ周りの小児科の先生と仕事量を同じくらいにするか、身の振り方を考えなさいよ」
 
 私と視線も合わさずに一方的にまくし立てる事務長に怒りを覚えて、院長と直接話をしたい旨を告げました。すると、院長と話すことはできない。上席を通して話をして来なさい。と、ちょっと事務長は焦ったようでした。院長室に直接行こうとすると、病院の方針は運営が決めると身体を張って止め、恫喝されました。これまでギスギスした雰囲気の中でも何とか頑張ろうとして来ましたが、4月に入り、患者さんから小児救急患者の受け入れや小児科入院ができなくなった不安がヒシヒシと伝わりました。私にはもう応える気力はありません。結局のところ、私は4月いっぱいで身も心もぼろぼろになり、病院を辞めました。私の限界はすでに超えていたのです。

 長年勤務していた病院を辞めたので、かつての同僚が2人、メールをくれました。ですが、自信を無くしている私には返信ができません。そうやって閉じこもっていたのですが、ある小児科医の友人が、しつこく電話をしてくるのです。放っておいてほしいと思ったのですが、電話の回数が200を超え、いい加減にしてほしいと思う反面不思議に思って電話に出ました。

 彼との電話は7年ぶり。彼がテレビ電話にしたいというので、テレビ電話に切り替えました。初めはオドオドしていましたが、彼の顔を見ているうちに心が落ち着き、安心することが出来ました。彼は、私の話をただただ聞いてくれるだけ。それが、数回続きました。彼は、私は間違っていない、私は正しいと何度も言ってくれるのです。それがとても嬉しくありました。

 5月に入り、前半はずっと家に閉じこもっていたのですが、彼が電話ではなく直接会いたいと言い、私の家まで来てくれたのです。私の中にも戸惑いはありましたが、それでも彼が来てくれたことは嬉しかったのだと思います。彼は、パワハラ、いじめを受けてバーンアウト状態になっているんだよ、と言います。私もそうだと、今ならわかります。そんな彼は、少しづつでも働きながら、復帰した方がいいと、病院を紹介してくれました。

 1つ目の病院はお互いに条件が折り合いませんでしたが、2つ目の面談先は今の勤務先です。面談をして下さった院長は、

「障がい児・障がい者医療と小児科救急は赤字でも子どものためにやらないとダメだよ。やりたい医療があるなら全力でやりなさい!頑張ってね」
 とおっしゃってくれました。

 私は、その言葉で、自分らしく生きられるようになったのです。

 今も障がい児・障がい者診療、小児救急患者の診療で支え支えられ、かつての同僚、小児科医の友人に支え支えられて生きています。病院も人の共同体であり、利益を追求しないわけにはいきません。ですが、私は病院と雇用契約はありますが、いじめをした個人に雇われているわけではないのです。そのことを理解する必要があります。

 正しい知識と理解。そして私の話を聞いてくれました友人に感謝します。私はまさに、周りにいた人たちのおかげで救われました。